小笠神社参道の調査・その1
=風吹嶺と風吹峠=
【1】きっかけ
小笠神社から東に延びる尾根があり、駐車場から尾根に向かう階段の元に”右ひぢかた”と書かれた道標を見つけたのがきっかけで、土方方面に続く尾根道(仮称:土方参道)の調査を開始しました。
現在は県道249と安倍川開発の土砂採取工事のために分断されていますが、風吹峠から南に佐束山に至る道があったことが分かりました
図1-1 小笠神社駐車場の東側にある“右ひぢかた”の道標
風吹峠について調査を進めると、風吹峠は古くから交通の要所であった事が分かりました。
図1-2は国土地理院地形図に4つのルートを色で分けて示します。(地形図の出典:今昔マップ https://ktgis.net/kjmapw/index.html )
左は明治22年、右は最新の地形図に4つのルートを記載したものです。
青色の線:土方から小笠神社に向かう参道(仮称:土方参道)と思われます。
赤色の線:入山瀬から岩井寺を経て掛川の中心部に向かう峠越の生活・通商の道です。
橙色の線:徳川家康の高天神攻めの際、旗を吊したといわれています。
緑色の線:小笠神社から岩井寺に至る稜線は風吹嶺と言われていました。
※破線部は現在通行できません
図1-2 明治22年と最新の地形図
【2】風吹嶺について
風吹峠を経て岩井寺にいたる稜線は“風吹嶺”と呼ばれていました。
旧村名(上内田村、土方村、佐束村、中内田村)と境界図を以下に示します。
図1-3 昔の行政区
静岡県小笠郡誌(大正4年初版発行)によると、以下の様に記載されています。
小笠山:風吹嶺は東岩井寺に至る路なり
風吹嶺:風吹嶺は小笠山の支脈に属し、上内田村・土方村の境にあり・・・
佐束山:上内田より中内田の境上を走るものを風吹嶺とし猪之神谷嶺とす
以上より、小笠神社~風吹峠~岩井寺に至る稜線が“風吹嶺”と考えられます
図1-4 小笠郡誌(背表紙と目次抜粋)
小笠神社参道の調査・その2
=風吹峠の変遷=
1.風吹砦と風吹峠トンネル
また戦国時代には、徳川家康が高天神城攻略のために数多くの砦を構築しましたが、風吹峠にも風吹砦が設けられ、高天神総攻撃の直前には200名を超える兵員が集められました。残念ながら風吹砦の大部分は砂利採取のため消失し、その1部が残るだけです。
昔(明治35年以前)は、土方村から掛川の中心部に出るためには、入山瀬と岩井寺の間にある“風吹峠(標高150m)”を越える必要がありました、その道は「三町七曲がりの険」と言われたけわしさで、荷車を使えませんでした。土方村に生まれた青野卯吉が中心になってトンネルを掘ることを計画し、報徳社(岡田良一郎社長)の融資を得て明治35年に3つの素掘りのトンネルが完成しました。融資の条件は土方に報徳社を作る事だったそうです。その後、昭和6年と昭和22年に改修されましたが、平成11年に新道が開通して役割を終えました。
ここでは、明治22年以降の地形図から、風吹峠と周辺の地形の変遷について調査しました。
出展:今昔マップ https://ktgis.net/kjmapw/index.html
(1)風吹峠の変遷1(明治22年)
下図の破線部は現在は通行できません。
緑の線は小笠山から風吹峠を経て岩井寺に至る風吹嶺です。赤い線は入山瀬から風吹峠を超えて岩井寺に至る道で、土方から掛川に出るメインルートです。青い線は土方から風吹峠を経て小笠神社に参拝する参道であったと思われます
(2)風吹峠の変遷2(大正5年)
風吹トンネルが開通しました。また入山瀬から小笠神社に至る参道が実線になりました。この参道の上に現在の自動車道が作られたため、参道の跡は一部残っているのみです。
(3)風吹峠の変遷3(昭和14年)
トンネルが改修され、道も広くなったようです。
(4)風吹峠の変遷4(昭和31年)
トンネルが改修され、道も少し変わったようです。
(5)風吹峠の変遷5(昭和54年)
砂利採取工事は昭和30年代後半から始まったようです。
砂利採取で風吹峠がかなり削られました。またゴルフ場も造成されました。小笠池ができました
(7)風吹峠の変遷7(平成8年)
砂利採取工事の範囲が広がりました。県道の南側、北側ともに大きく削られています。この時には東沢奥池、口池はありませんでした。
(9)風吹峠の変遷9(空撮図)
空撮図にルートを重ねました。
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小笠山を愛する協議会
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事務局長: 鈴木久裕
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